こちらは、「尿前の関(尿前御番所跡)」です。
戦国時代には出羽の最上と境を接する
尿前 ( しとまえ ) の岩手の森に、岩手の関がありました。
これが 尿前 ( しとまえ ) の関の前身です。
出羽の国飽海郡の遊佐勘解由宣春(鳴子、遊佐氏の先祖)が
大永年間(1521年から27年)に栗原郡三迫から、
名生定の湯山氏の加勢としてここに小屋館を構え、後関守となりました。
伊達藩になってから 尿前 ( しとまえ ) 境目と呼ばれ、
寛文10年(1670年)尿前番所を設置、
岩出山伊達家から横目役人が派遣され、厳重な取り締まりが行なわれました。
この背景として挙げられるのが「伊達騒動」です。
通行手形を持っていなかった松尾芭蕉と門人曽良は、
元禄2年(1689年)この関所であやしまれ、
厳しい取調べを受け、ようやく通過したそうです。
奥の細道にも、次のようにあります↓
なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。
此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。
【おくのほそ道】
(鳴子温泉から尿前の関に差しかかって出羽の国へ越えて行こうとした。
この道は旅人がめったに通らないので関所の番人に怪しく思われて、
ようやく関を越すことができた。)